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セアカゴケグモ事件と旅行記

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公務員時代記録

   公務員時代(環境衛生監視員)36年間の記録  
 大阪府への採用  最初の移動  本庁への移動
 浄化槽行政担当  二つの出会い  花博開催保健所
 環境衛生第一係  係長拝命  生活衛生室へ
 企画課長補佐  東大阪市へ  最後の勤務地
 華やかな公務員時代・・今は亡き公務員時代

〜No2 最初の異動〜  
4 最初の異動(2カ所目の保健所)
 楽しい日々があり、友人も多くできた泉佐野から未知の和泉保健所への転勤は苦痛で、内示から異動までの間は、できることなら一生泉佐野保健所に勤務したいと切望した。
 しかし、次の保健所でもまた多くの出会いがあった。入庁後初めての異動地も大阪府の南に位置し、山間部を抱える和泉市一市を所管する保健所であった。
 この職場はゴルフを抜きには語れない。阪南市の南海電鉄尾崎駅前から通う山上所長は、当時の所長では珍しく職員との距離の近い、親しみのもてる所長だった。
 その所長は無類のゴルフ好きで、衛生課長の北山氏と所内にゴルフブームを起こした。
 ゴルフの遊びに飛びついたのは、運転手の藍畑氏、食品の松谷氏、福井氏、環境の私、事務の野内氏、楠本氏、高岡氏、レントゲン技師の下中氏と金田氏などで、昼休み、車で10分のゴルフ練習場に日参した。
 夏にはこれらのメンバーで、山代温泉白雲閣に泊まり、前日の加賀カントリーと翌日の加賀セントラルなどのゴルフ場で、暑い最中多いときは2日で4ラウンド回った。
 このメンバーはゴルフの遊技だけでなく、卓球とソフトボールにもぎりぎりの少人数でチームを組み、保健所対抗試合に参加した。試合前には信太山の自衛隊駐屯地にある運動場で、夕刻遅くまで練習をした。
 チームの圧巻は、初心者をメンバーを入れ、藍畑ピッチャーとキャッチャー下中の指導のもと、泉佐野の3軍から和泉の1軍に昇格した私がショートを守り、三塁松谷、ファースト高岡、セカンド金田、レフト福井、センター野内、ライト楠本のメンバーで望んだ予選で岸和田、泉佐野を連破した和泉保健所が泉南代表でブロック大会に進出した。決勝戦でも大柄最強の豊中保健所を下して奇跡の優勝を果たした。大会後の祝賀会には所長が2万円寄付し、応援団の女性職員も含めた大宴会となった。
 一方、ゴルフの熱心さが大きなトラブルも引き起こした。
 3時過ぎの来客の減った時間帯に、保健所建物裏に藍畑氏が穴を掘ったホールカップに数人がパターを手にボールを転がした。これを、2階から見つけた検査補助の増田さんが府人事課に投書し、調査に来た人事課職員に、時間中の遊びが発覚することとなった。
 この時、名前が挙がったのは、北山、下中、藍畑、金田と私の5人で、所長代理が人事に呼ばれ厳重注意を受け、かつ5人には始末書が求められた。
 私は、近くの喫茶店でA4用紙2枚に陳述を記載し、所内で清書して提出したが、山上所長と和田所長代理は「後の履歴に汚点が残らないよう配慮する。」と私を慰めてくれた。実際にこの陳述書が以後の異動や昇格人事でマイナスに働くことは無かった。
 和泉での記憶に残した業務は、和泉市街地の自治会を通じて井戸水のアンケートを町会組織に依頼して100基の井戸水の水質検査を実施し、取りまとめた調査である。
 この調査は、水質検査を検査技師の西村氏に協力依頼し、採水した井戸水の簡単な測定を検査室で私が自ら行った。和泉の地名にもなった市街地の井戸は、古い住宅の各戸に設置されており、井戸の形状、井戸の深さ、使用実態、水質の状況などの詳細な資料は、検査技師や水質汚濁に携わる職員に先駆的な井戸調査として活用された。
 もう一つの調査は、夏休み期間中の水道施設に残留する塩素の消長に眼を付け、連日一定時間に学校に行き遊離残留塩素の濃度を測定した。
 水道の使用が減少する長期間の休み中は、水道水に添加されている塩素が徐々に減少し、一週間で消失した。これは実験室で調べたバケツにいれた水道水が、当初「0.7」が3日で「0.4」に、一週間で「0」に消失した例とマッチし、夏休み明けの水道利用に警告を発せる貴重な資料となった。取りまとめた調査結果は、北海道札幌市で開催された建築物環境衛生全国大会に発表した。
 この調査に良き理解者であった検査技師の西村氏は、大阪府を退職し、共産党公認で和泉市の市会議員選挙に立候補し市会議員になった。
 和泉市内には信太山の自衛隊駐屯地があったことから、阪和線信太山駅前に、新地と呼ばれる赤線歓楽街があった。新地一角には、旅館が約30件と同じ数のスナックが営業され、保健所から年2回、環境と食品合同で、旅館及び飲食店の一斉立入検査を組合役員立ち会いのもと定期的に実施した。一斉立入は旅館だけで無く、銭湯の公衆浴場施設も同業組合役員と一緒に全施設を回ることが古くからの伝統であった。
 環境衛生同業組合は、業種ごとに組織されており、保健所単位では支部が置かれた。
 この組合組織と保健所のつながりは微妙で、過去には密接な連携で施設の衛生確保を図る催しが企画されたが、業界と行政の不自然な関係が指摘され透明性が問われるようになってからは、徐々に合同監視などの一斉立入検査の習慣が消えていった。
 和泉保健所での環境の同僚では、保健所環境衛生関係職員協議会の会長を長く務めていた中嶋氏が印象深い。彼は、環境衛生監視員の処遇改善に本庁所管課と喧嘩腰で折衝し「矢面に立った会長歴で苦労した。」と我々後輩によく溢していたが、主幹に昇格し、最後は保健所衛生課長職を勤めて定年退職した。
 和泉保健所2年目には、産業廃棄物対策業務の本庁一元化が決まり、保健所の産業廃棄物担当職員の本庁への引き上げが実施された。
 異動対象者として私にも意向調査があったが、所長代理からの残留要請を受け、保健所に留まると回答した。入庁時から本庁指向であったことから、調査の返答には随分と悩まされたが、目の前の本庁勤務を放棄し次の異動に期待することとした。
 この判断は以降の公務員生活の岐路であったが、その後本庁勤務が実現し、環境衛生業務一筋の波乱に満ちた場を与えられ、多種多様な多くの出会いを経験するなど、振り返るれば、その苦渋の判断は正しかったと言える。この時に、同期の永野、中川氏を含めて多くの優秀な環境衛生監視員が、保健所から産業廃棄物対策部局に転出した。
 この頃、私はまだ20代で、本庁への異動希望と併せ、教員になる希望を持ち続けていた。高校教員の資格はあったが、倍率が高く、次善の策として小学校教員を目指すことにし、京都市北区にある仏教大学通信教育部に入学した。
 通信教育は週一回の通学が義務づけられており、2年間、毎週日曜日、朝5時に起きて、貝塚市から片道2時間以上をかけて京都に通った。
 また2年目の教育実習は、自宅近くの貝塚南小学校に直接お願いし、約3週間、有給休暇を取って小学校の教壇に立った。担当教諭は3年生を受け持っていた40代前半の佐藤愛子先生で、授業への取り組みや日々の日誌記録に好感を持ってもらい、教員採用一次試験が受かれば必ず採用できるよう教育委員会に働きかけると約束してくれた。
 しかし、小学校教員免許取得後、大阪府の教員採用試験を2回受験したが、一次試験に受からず、3年目以降は本庁業務の多忙さから受験を諦めた。
 通信教育の同級生で親しかった男性3人と女性1人は兵庫県の採用試験に受かり、小学校の教諭となった。私の天職は教師だったと、今でも試験の挑戦を続けなかったことを悔やんでいる。
 住居はもともとの転居癖から、大阪に来た最初は叔父宅に下宿し、泉佐野保健所勤務の2年目にJP阪和線我孫子駅近くの大阪府職員宅舎「あびこ独身寮」に入り、数ヶ月後には、南海本線岸和田市駅徒歩1分の商店街裏の6畳と台所付きのアパートを借り住まいとした。結婚してからは、貝塚市の水間鉄道石才駅から徒歩5分の大阪府住宅供給公社の新築アパートを住居としたが、和泉保健所の2年目に、住友不動産が売り出した和泉市内の5階建てマンション一階を1千万円で購入した。
 その後、守口保健所在職中の平成初期バブル期に和泉市の住宅を2千5百万円で売り、京阪沿線寝屋川市からバス12分のマンションを4千9百万円で購入した。高額で売り、高額なマンション購入にあて、損得は少なかった。

5 当時の保健所風景
 昭和40年代の保健所は、半日出勤の土曜日、順番制で庁舎管理の泊まりがあり、仮眠室の夜は、同僚職員を呼び徹夜での飲み会とマージャン部屋に変わった。
 また組合活動が活発で、正月前には、恒例の餅つき大会が組合主催で行われ、夏のキャンプや秋の運動会などの催しが頻繁に開催された。
 賃上げ闘争は、毎年、人事院勧告の完全実施を求めて昼休み集会がもたれ、管理職以外はほとんどの職員が参加し、府庁周辺のデモにもよく誘われた。
 昭和の古き時代、今では回顧になるが、年末年始は半ドン、年始はお酒と蜜柑が振る舞われ、年一回、土曜日の午後から一泊の親睦会の職場旅行が企画された。
 大阪からの行き場は限られ、北陸、北近畿、鳥取、岡山、南近畿、伊勢などが順番に選定されたが、バブル期前には、飛行機を使って北海道や沖縄、韓国、台湾などに行く職場も見られた。
 給与から天引きされる親睦会費は、幹事の職員が管理していたが、府庁2度目の公金の裏金問題が表面化した際に解散し、ほとんどの職場から親睦の場が消えた。


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